おじいちゃんと稀勢の里

「振り返った時に恥ずかしいぐらいが丁度良い」って誰かが言ってたから。

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大相撲の稀勢の里関が横綱に昇進されました。

第72代横綱が正式に誕生した。日本相撲協会は25日午前、東京・両国国技館で臨時理事会を開き、大関稀勢の里(30=田子ノ浦)の横綱昇進を決めた。

日本出身力士の横綱誕生は、1998年夏場所後の3代目若乃花以来、19年ぶり。大相撲春場所(3月12日初日、エディオンアリーナ大阪)の番付に、03年初場所貴乃花(現貴乃花親方)を最後に途絶えていた、日本出身横綱が14年ぶりに復活する。

日本相撲協会は臨時理事会後、使者の春日野理事(54=元関脇栃乃和歌)と高田川審判委員(49=元関脇安芸乃島)を伝達式の会場となる東京都内のホテルに派遣し、昇進を伝えた。

稀勢の里は緊張した面持ちで「横綱の名に恥じぬよう精進致します」と口上を述べた。

稀勢の里はおじいちゃんが大好きな力士でした。

稀勢の里」の文字を見ると大好きだったおじいちゃんの顔が浮かびます。

 

人間は忘れる生き物です。でも大好きなおじいちゃんとの思い出は忘れたくないから恥ずかしいけどここに書き残します。

 

 

 

家の事情で父親がいない僕は「大人の男性」というものが身内におじいちゃんしかいなかった。遊び相手と言えばおじいちゃんだった僕は物心が付いた時にはもう既に根っからのおじいちゃん子だった。

 

保育園から小学校低学年の頃、よく河原の土手でおじいちゃんと弟の3人でキャッチボールをした。おじいちゃんはノックが下手だったから、川の方にボールが飛んで何個も流された。内緒にする代わりにたこ焼きを買ってくれた。美味しかった。

河原でおじいちゃんのノックを受けてる時に、散歩に来ていた犬のリードが外れて追いかけられたことがあった。おじいちゃんは遠くから「逃げたらあかん!じっとしとれ!そうせなずっと追いかけられるぞ!」って叫んでたけど怖かった僕は疲れるまで走って逃げて、最終的に犬に襲われた。犬は今でも怖い。

祖父母の家に泊まった時はお風呂から上がるとどうぶつ奇想天外を見ながら五目並べをした。ぜんぜん勝てなかった。おじいちゃんは強かった。だからたまに勝てた時は本当に嬉しかった。

おじいちゃんと一緒に寝る時に嗅いだ整髪剤か何かのにおいは「おじいちゃんのにおい」でぜったいに忘れない。

おじいちゃんとは祖父母の家の近くの山に何回か登った記憶がある。頂上に鐘があって、その鐘を鳴らしてる写真をおじいちゃんに撮って貰った。今はどこにいったか分からない。今でもおじいちゃんとの思い出を確かめるように、暑くなるとその山に登る。今年も登ってまた写真を撮ると思う。

おじいちゃんは毎日晩ご飯の前にお経を読んでいた。

 

小学校の高学年になると学童が無くなって家に帰らないといけなくなった。母さんは仕事だったから毎日おじいちゃんが家まで車を運転して来てくれた。洗濯物を畳んだり、習い事先まで送ってくれたり、米を研いでくれたり、パート先の業務計算をしてたり、新聞を読んだり、庭の草抜きをしたり。

学校から帰ると毎日おじいちゃんがいた。面倒だったのと早く遊びに行きたかったので本読みの宿題を読んだことにして貰っていた。頼むことすらしなかった日は遊びから帰って来てからおじいちゃんの細長い字をマネして本読みカードに自分でサインしていた。

たまにおやつを買ってきてくれてて、それが無い日は果物を用意してくれていた。特にりんごが多くて、痛まないように塩に漬けてあったお陰でしょっぱかったしギザギザで、おじいちゃんが切ったことがすぐに分かった。おやつが無くてりんごの日はハズレの日だと内心思ってた。何年か後におじいちゃんはりんごが嫌いだと知った時はびっくりした。嫌いなりんごを僕たちのためにわざわざ買って切ってくれていた。 

遊びから帰っても母さんが帰ってくるまでゲームしてると「宿題とかすることしてなくて怒られるのはわしなんやぞ」ってよく叱られた。

遊びに行かない日は家の裏の駐車場でキャッチボールをした。暴投して隣の畑に入れてしまって、二人で何度も謝りに行った。

習い事に行く車の中のラジオでよく阪神の野球中継を聴いてた。今日のピッチャーは誰だとか、この実況の人あまり阪神のこと知らん好きじゃないとか、そんな話をよくした。

週末は母の仕事の関係もあって、ほとんど祖父母の家で過ごした。祖父母と弟の4人でイトーヨーカドーへ行った。おばあちゃんにカードとかおもちゃを買って貰う間、おじいちゃんは買い物には付いてこず、ずっと車の中にいた。おじいちゃんはいつも運転手だった。

祖父母の家に行ったらたいてい焼き肉で、僕たちは肉を好きなだけ食べれたけどおじいちゃんの分だけ祖母が決めてて、そのことがおじいちゃんはめっちゃ嫌そうだった。

 

中学生になっても帰ったらおじいちゃんがいた。

部活で帰る時間が遅くなっておじいちゃんが先に帰っていることがしばしばあったけど、そういう日は決まって机の上にりんごが置いてあった。

おじいちゃんはいつもテレビで相撲か阪神を見てた。このくらいの時期からじいちゃんは稀勢の里を注目していた。わざわざ稀勢の里の取り組みを見てから帰る日もあったほど、お気に入りの力士だった。相撲も野球も見るようになったのはおじいちゃんの影響だ。

テスト期間にも関わらずゲームをしてる時は本気で怒られた。反抗期の僕はバチバチに反抗した。

60歳の後半だったと思うけどその歳になってもパートとして雇われていた。会計の計算をするために何度か電卓を借りにきたことがあった。今思うと、その年になっても会社に必要とされてるおじいちゃん凄い。

母がおじいちゃんのために畑を町から借りた。おじいちゃんの手伝いによく畑に狩り出された。畑に行くまでは嫌だったけど、おじいちゃんの手伝いが一通り終わった時の達成感は男の世界って感じで気持ちよかった。

 

高専に入ってもしばらくはおじいちゃんがいた。

駅からの帰りに畑に寄るとよくおじいちゃんがいた。同じように畑を借りている人とよく話をしていた。この前も畑に行った時にその人達に「おじいさん元気にしとるか?」と聞かれた。

テレビでは阪神か相撲を相変わらず見てて、稀勢の里に関しては「いつもここぞという大事な取り組みで負けるわ」と呆れていた。阪神にも同じ事を言っていた。それでも両方ずっと応援していた。

高学年になると、年齢的に車の運転が危ないということで運転を禁止されて、やがて家に来なくなった。

それでも週末になると家族5人で喫茶店に行った。

 

高専4年の2月、おじいちゃんは要介護認定されて市の介護施設に入った。

 

その前の年(高専4年)の8月、母さんが「5人で旅行出来るのはこれが最後やから」と東京へ旅行に行くことになった。行く直前になって祖母が祖父の体調を気遣って「行くのを止める」と大反対して母と大ケンカしたけど母が半ば強制的に連れて行った。今になって思い返してみると本当にそれが家族5人での最後の家族旅行だった。数年後、祖母が「母さんが言ってたことはホンマやったよな。あれが最後の旅行になってもたなぁ。行って良かった・・・」と呟くように言っているのを耳にした。母さんの言うことはいつも正しかった。

旅行中も母と祖母はずっとケンカしていて、この旅行を境に母と祖母の仲はより悪くなった。どちらも祖父のことを思ってのケンカだから、どちらが悪いと言い切れない。

 

おじいちゃんがいなくなって、母と祖母の関係悪化もあり祖父母の家に行くことが一気に減った。 

晩ご飯を祖父母の家で食べてもおじいちゃんのいない隣のスペースががらんと空いていて、なんだか寂しい。

それでも週末には面会に行って喫茶店に5人で行くというのは変わらなかった。最近知ったけど母さんもおじいちゃん子だった。

おじいちゃんがどんな父親だったのか、母さんに一度聞いた。「何もしてくれなかった。朝は新聞配達をしてから仕事に行って、帰ってくるのは11時ぐらい。ずっと仕事をしていて家にはほとんどいなかった。家には仕事の嫌がらせの電話が何度もかかってきた。でもスキーが好きで、毎年連れて行って貰った。」

 

大学に入った。

この前帰ったら僕の名前を覚えてなくてその場で泣きそうになった。弟の名前は覚えていた。おじいちゃんは弟より僕の方を可愛がってくれてると思ってたから余計にショックだった。

悲しさと悔しさで「忘れられた人間が面会に行く意味があるのか」と思ったけど、こういうことに意味を求めてはいけないと思ったし、今までおじいちゃんが僕にかけてくれた時間を今度は僕が返す番だと思った。

面会に行くと何を言っても笑ってくれる。前までおじいちゃんが笑ってる所なんてあまり見たことがなかった。ボケたから笑ってるのか、嬉しくて笑ってるのか分からないけれど、どちらにしても笑顔が見れて嬉しい。最近おじいちゃんと僕の笑顔が似ていることに気がついた。 

 

 

今度帰ったらおじいちゃんに話そうと思う。 

稀勢の里横綱になったんやで。」